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2024.11.01

竹千代誕生への道のり

【設立背景】
2048年8月6日

娘を励ましてくれた竹あかり。
学校でいじめを受けていた発達障害がある娘。
彼女を少しでも元気つけるため、大変、お世話になっている方のご招待で広島県の竹あかりに参加したのが私が竹あかりイベントを開催したいと思ったきっかけになりました。
人と人との繋がりは本来温かいものであること。
それを肌で感じたのでしょうか、竹あかりを見た娘はとても感動し日に日に元気を取り戻していきました。
この竹あかりのイベントを地元である和歌山県で開催し、竹あかりの優しい灯りを感じてもらうことで、同じ悩みや不安を抱える子どもたちや大人たちに対し、生きる希望や、不安に負けない強さを感じてもらえるかもしれない、そう考えました。
そんな思いで、2年前の2018年11月、和歌山県紀の川市で初の竹あかりイベント実施しました。
力のある大人達に竹を切ってもらい、ワークショップで専用のドリルを使いながら大小さまざまな大きさの穴を開けて、竹あかりを作成。
子どもから大人まで300人以上が参加し、思い思いのデザインを施したオリジナルの竹あかり作成に夢中になっていました。
そしてイベント前日の夕方に灯りを灯火。
幻想的な雰囲気の中でコンサートや記念撮影が行われ、会場は大盛り上がり。
参加者の皆様からは、「きらめく光がとってもきれい」「来年は違うデザインの竹あかりを作ってみたい!」「竹あかりを観て、人の温かさを感じた」と、嬉しいお言葉をいただきました。
そして、そこから、2019年は和歌山県内で竹あかりが大きく展開していきました。
以下、みんなの想火プロジェクト事務局の方からのインタビュー記事を引用します。

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竹あかりには敵をも味方にする「ちから」がある
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和歌山県のサムライ、谷正義さん。
普段は紀の川市で老人ホームや整体院を運営している介護のプロだ。
竹からもれるやさしい光に魅了されたのは昨年(2018年)の8月のことだった。
広島県で開催された竹あかりのイベントに参加したことがきっかけだった。
その直前の7月、小学生の長女が同級生たちからいじめにあっていることを知るという事件があった。
娘は発達障害があり自閉症と診断されていたが、そんな彼女が「からかい」の対象になっていることが悲しかった。
そして普段から社会貢献やボランティアといった活動を行い、少しでも人のためになるよう生きてきたつもりだったが、自分の家族すら守れていないのが現実なのか……と悔し涙が溢れてきた。
その涙にはそれまでの谷さんの人生も反映されていた。
谷さんは両親が重度の精神障害を患っている。
谷さんは幼い頃から過度の虐待を受けて育ち、また両親は薬漬けでまともな思考や行動ができなかった。
包丁で刺されそうになり警察を呼んだことも、父が母に、母が父に暴力をふるうことは日常茶飯事だった。
9歳の頃から両親の介護をしていたという谷さん。
両親とは衝突を繰り返し、また周囲からは両親を「きちがい」と馬鹿にされ、悩み苦しんできた。
そんな中で特に印象的な出来事が谷さんが14歳の時に起こった。
あるとき、両親への苛立ちをが爆発した谷さんは暴力と共に「こんな親があるか!」と暴言を吐いてしまう。
すると寝たきりの母親からは涙が流れ落ちてきた。
その様子を見ていた谷さんはハッとした。
「苦しいのは自分だけじゃないんだ。周囲から馬鹿にされている両親こそ苦しいんじゃないか。好きで病気になったわけでも、好きで寝たきりになっているわけではないんだ。」と気付いたという。
谷さんは自身を「承認欲求がとても強い」と表現する。
それは根っこに「自分が認められれば、僕の両親も認めてもらえるのでは」という思いがあるからだという。
あるときから「自身の不遇を環境のせいにせず、自分が変われば環境も変わるはず。
他人は自分を映す鏡。
自分次第で環境も他人も愛に変えていけるのではないか」と信じるようになった。
その後も両親とのいさかいは絶えなかったものの、そのときの思いを胸に介護を本職として頑張ってきたのだった。
だが現実と理想のギャップや人間関係に自身もうつ病を患うなど、決して平坦な道のりではなかった。
そして発覚した娘へのいじめ。
その現実に苦しむ中で出会ったのが竹あかりだった。
見た目の美しさと、竹を通じて人がつながっていける竹あかりのあり方美しさに惹かれた。
見よう見まねで地元の和歌山県でもはじめることにした。
主に仕事の休みを利用しての制作やワークショップ、演出を繰り返す内、次第に関わる人の輪は広がり、時として思いがけない偶然を生むことも増えてきた。
決定的だった出会いがある。
竹あかりを始め、その様子がNHKでひろく放映された。
それを見た一人の初老の男性から「感動しました。是非、ボランティアで手伝わせて欲しい」と連絡があった。
やけに熱心だった。
お会いして話していると意外な事実が判明した。
娘をいじめた一人の祖父だったのだ。
そのことを聞いたとき、思わず息を飲んだ。
なんという巡り合わせだろう。
そしてそのときに確信した。
「竹あかりには敵をも味方にする。そんな不思議な力がある」と。
谷さんは「和歌山県竹あかり実行委員会」を立ち上げ、和歌山での竹あかりの普及に日々取り組んでいる。
そしてオリンピックに向けて47都道府県で竹にあかりを灯す、和歌山県のリーダー(サムライ)となることとなった。
まだ未確定ではあるが、県内の7ヶ所ほどで竹あかりを灯す予定で準備している。
仕事をしながらの合間を縫っての準備には限界もあるし、何より大変な労力だ。
だが大変であればあるほど、その達成感が大きいことを谷さんは身体で知っているという。
谷さんは言う。
「竹あかりは灯して終わりじゃないと思います。竹あかりをきっかけに、人と人や、人の気遣いや思いやりが次々につながっていく。そのことが目指すことであり竹あかりを開催する意味なんです。」
以上、みんなの想火プロジェクト事務局の方からのインタビューより
2020年8月6日、和歌山県内で竹あかりの活動をして3年目を迎え、素敵な出会いがありました。
それは、株式会社竹千代のビジネスパートナーでもあるカナエリアの竹灯籠:演出家の川渕晧平さん、なないろ電気通信(株)の電気工事士の前中由希恵さんのお二人でした。
このお二人と私が中心になって和歌山県白浜町にある和歌山アドベンチャーワールドさんのパーク内にあるパンダラブという場所で3人で考えた竹あかり作品をコロナで経済的、精神的にも大変な状況の中、地域のみなさん、和歌山アドベンチャーワールドの山本社長はじめ沢山の素敵なスタッフのみなさん、竹専用ドリルを作っているスターエムの素敵なスタッフさん、和歌山県竹あかり実行委員会の大切な仲間たちと一緒にボランティアで作った竹あかり作品に沢山の方々が笑顔いっぱいになり地域に明るい話題を届けることができた瞬間、「これだ、これを仕事にして地域社会に貢献できるような会社を創る!」と心の底から感じたのが大きな理由です。
そして、2020年9月15日に環境問題になっている竹害になっている竹を使って作った工芸品や竹あかりのライトアップやワクワクするような楽しく面白いことをやっていく会社、株式会社竹千代(代表取締役社長・谷 正義)を設立しました。

株式会社竹千代‥タケチヨの会社名にした理由
徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体:德川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名[1]・天下人。
安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖。
旧称は松平 元康(まつだいら もとやす)。
戦国時代に終止符を打ち、朝廷より征夷大将軍に任せられ江戸幕府を開く[1]。三英傑のひとり。
紀州徳川家は、徳川家康の十男徳川頼宣を家祖とする。
頼宣は、慶長8年(1603年)に常陸国水戸藩主に封じられるが、水戸には赴かないままに慶長14年(1609年)駿府藩主となり、さらに元和5年(1619年)紀州藩主(和歌山藩主)となった。
以後、子孫は歴代の紀州藩主であった。
常陸介に叙任されるのは、家祖頼宣が元服した慶長11年(1606年)に水戸藩主であったことに係る。
第5代藩主吉宗と第13代藩主慶福が、それぞれ第8代将軍徳川吉宗、第14代将軍徳川家茂となっており、御三家のうちで将軍を出した唯一の家である[2]。Wikipediaより引用。
生年月日:1543年1月31日生まれの徳川家康さんの幼名が竹千代という名前が不思議にも私自身ビビッときたのと徳川家と和歌山城がある和歌山県とも深い繋がりがあること、名前が〝竹〟がついていること徳川家康さんの誕生日1月31日が私の長女の悠楓の誕生日が同じということ、そして私自身、尊敬する方からのご紹介で2年前の8月6日の日に竹あかりを知り、和歌山県で竹あかりをするきっかけとなったのが、発達障がいで自閉症があり、小学校で雑草を食べさせられ虐められていた長女の悠楓だったということと竹に関する事業を展開していくということで全てが不思議と繋がり、沢山の候補名がある中、最終、竹千代という名前が決まりました。
まだまだ小さな小さな生まれたばかりの赤ちゃんのような会社になりますが、徳川家のような、ずっと地域から愛されるような会社にしていけたらと考えて考えて作りました。
ちなみに、しばらくは、本業の福祉関係のお仕事を続けながら、従業員ゼロの会社として私一人、孤軍奮闘しながら動いていきます。
正直、最強のビジネスパートナーがいらっしゃるので、安心しています。
私自身が、しっかり動いて良い結果を出すだけです。
来月中には、登記が完了し、株式会社竹千代として本格的な事業開始は10月からスタート予定となります。
具体的な情報は、来月に順次公開させていただきます。
ビジネスパートナーは、色んなところからオファーがあり、今、関係者と話し合いで一つひとつ丁寧にお話しをして、決めさせていただいていおります。
今のところ具体的なビジネスパートナーとして一緒にやっていくのが三重県伊賀市にあるカナエリアの代表の川渕 皓平さん(この人は、一生涯の戦友です。)です。
8月8日に一緒に会社を立ち上げるという動きでしたが、それぞれの〝立つフィールド〟からタッグを組むという形で動くことになりました。
川渕さんは、私にとって〝大切な人〟であり〝信用出来る仲間〟です。
そして、もう一人京都府内にあるなないろ電気通信の電工女子こと電気工事士の前中 由希恵さん(この人も、一生涯の戦友です。)です。
電気関係のスペシャリストでハートも強く、地域の景観をより良く魅せるプロフェッショナルな人ですし前中さんも、私にとって〝大切な人〟であり〝信用出来る仲間〟です。
あと、まだ非公開ですが沢山のビジネスパートナーの方々と色んな仕事を始めていくことも、水面下で順調に進んでいます。
そして、2020年9月15日を会社設立日にした理由(しかも、仏滅の日)は徳川家康さんにとって、いろんな想いがある日ということ。

【9月15日という日に興味津々👀①】
関ヶ原の戦いの日
この戦役は、豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍と、徳川家康を中心に構成された東軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げた。
この戦役の結果、豊臣政権は統一政権の地位を失った一方、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋が開かれることになる。
慶長5年9月15日に、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍(註:名目上の「西軍大将」は毛利輝元であるが、輝元は大坂城に居たので、実質の西軍大将は石田三成)が戦った「天下分け目の戦い」である「関ヶ原の合戦」の場所を想起するであろう。
何故、この地を「関ヶ原」というかは地図をご覧になれば判るように、東国から畿内へ向かうための要衝の近江国と美濃国の国境にあって、西進しようとする大規模軍勢は、必ずこの隘路(あいろ=ボトルネック)を通らなければならない「関」のような盆地だからである。
現在でも、律令時代からの東山道、近世の中山道、近代のJR東海道本線、現代の東海道新幹線と名神高速道路といった日本列島を東西に貫く大動脈が、わずか幅500mの隘路に折り重なるようにして通過している。
であるから、空軍のなかった前近代までの合戦では、関ヶ原は戦略上、極めて重要な拠点であることはいうまでもない。
しかし、この関ヶ原が戦略上の最重要拠点になったのは、慶長5年の関ヶ原の合戦の時が最初ではない。
関ヶ原の戦いを900年以上遡る672年に起こった古代史上最大の内戦である「壬申の乱」の際にも、この地は、内戦の帰趨を制する重要な戦略拠点となった。
朝鮮半島における百済復興を目指した「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅連合軍に敗北を喫した天智天皇は、防衛上の理由から都を外敵の侵入しやすい大阪湾から近い奈良盆地から内陸の琵琶湖岸の近江宮に遷したが、朝廷内最大の実力者である皇太弟の大海皇子が居たにもかかわらず、671年11月、実子の大友皇子を太政大臣の位に就け、事実上の後継指名した(註:1999年2月、預言者ムハンマドの血を引く中東で最も由緒正しいヨルダンのハシミテ王家で半世紀にわたって王位に就いていたフセイン・ビン=タラール王は、死の直前に、長年、摂政をしていた王太弟のハッサン・ビン=タラール殿下を廃し、実子のアブドラ・ビン=アル・フセインを王太子に指名して崩御。
その後、アブドラが国王に即位したが、ハッサン殿下の抑制のきいた行為から平穏裏に政権委譲が行われた)ことから、身の危険を感じた大海皇子は、皇太弟を含む全ての官位を辞して、大和国の吉野宮に隠遁した。
翌年1月、天智天皇が崩じると、弱冠24歳の大友皇子が近江宮で即位した(註:1200年経った明治3年になって「弘文天皇」号を追号)が、大海皇子は7月27日に吉野を出奔し、伊賀国→伊勢国→美濃国に至り、部下に「不破の道」を封鎖させて、東国で兵を募り、ここから大軍を一挙に近江国に送り込み、瀬田橋の戦いで大友皇子軍を撃破した。
翌8月24日に大友皇子が自害し、壬申の乱は終結。
翌673年2月、大海皇子は大和国に飛鳥浄御原宮を造営して即位し、天武天皇となった。
天武天皇は、律令を整え、八色姓(やくさのかばね)や官位を制定し、古事記・日本書紀を編纂させるなど、日本の古代国家を完成させたことは言うまでもない。
天武天皇は即位すると直ぐに、東国から都を守るための防衛線として、不破関・鈴鹿関・愛発関の「三関」を整備させたことが、「不破関」の始まりである。以来、畿内の人々は「不破関」よりも東を「関東」あるいは「東国」と呼ぶようになった。
東京一極集中が進んだ現在では逆に、この不破関よりも西を「関西」あるいは「西日本」と呼んでいる。
不破関の軍事上の「関所」としての機能は、時代と共に衰えて行き、むしろ、「之より先は東国(後進地域)」という精神的なバリア(註:古来、和歌や俳句によく詠まれている)のほうが大きくなっていき、その不破関が歴史の表舞台に再登場したのが、最初に述べた「天下分け目の戦い」である慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いである。
尾張国出身の織田信長も羽柴秀吉も、京の都ではなく、肥沃な濃尾平野からこの不破関を越えて近江国に入ってすぐの琵琶湖岸(直線距離にして約20km)に安土城や長浜城を構えた。
関ヶ原の合戦の西軍の将であった石田三成の佐和山城も、また、徳川四天王の内、「赤備え」の甲冑で最も勇猛果敢だった譜代大名の筆頭井伊直政も、その居城を彦根に置いたことからも、この地の重要性が窺えるであろう。

【9月15日という日に興味津々👀②】
徳川家康さんの長男でもあり幼少期の名前が竹千代でもあった徳岡康信の切腹の日
永禄2年(1559年)3月6日徳川家康と正室築山殿の長男として産まれる。
幼名は竹千代。武勇の誉れ高く、15歳での初陣を皮切りにその後も勇猛果敢な働きで家康を大いに喜ばせた。
戦国時代の習慣により当時同盟関係にあった織田信長の娘、徳姫と結婚。
その後信康と改名。
順風満帆に思われた人生を突然の悲劇が襲う。
敵国である武田氏との内通を疑われ自害を命じられてしまうのだ。
これは信康の資質に恐れをなした信長の謀略との見方があるが、信康は自らの命を断つことで徳川家を守る決意をする。
そして天正七年(1579年)9月15日、当地二俣城にて切腹し短すぎる生涯に終止符をうったのである。
このときの信康は21歳であった。※解説には諸説あり
以上、会社を起こすきっかけ、会社名を竹千代にするきっかけ、会社設立日のきっかけでした。
長文を最後まで、ご覧いただき、ありがとうございました。
とにかく、自分磨き、誠実、忍耐、希望を持って前進して参ります。
まだまだ、若輩者ではございますが、36歳、新たなチャレンジをして絶対に成功させていく決意です。
引き続き、ご指導、ご鞭撻のほど、宜しくお願いします。
2020年9月15日
〜地球に優しい和の光を世界のみんなに届けたい〜
株式会社竹千代
代表取締役社長 谷 正義

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